「時間が傷を癒してくれる」といった言葉や「時間薬」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。それは果たして本当なのでしょうか。「確かにその通りだ」という人もいる一方、「10年経っても哀しみは変わらない」という人もいます。
どちらかが間違っていて、どちらかが正しいのでしょうか。いったい時間とは何か、時間はどういう風に捉えるべきなのでしょうか。
時間への感覚
愛する人との死別は、時間に対する感覚もおかしくしてしまいます。ひとりぼっちの時間はあまりにも長いのです。1秒が、1分が、1時間が長く感じます。これは、よく言われますが「楽しい時間はすぐに、苦しい辛い時間は長く感じる」という私たちの時間感覚がそうさせるのです。
「共に人生を歩む」と誓った相手が、今この世の中にいないという事実はそう簡単に受け入れることはできません。何度も何度もあの人の名前を呼んでも返事が返ってくることはありません。そういう時間を過ごしている中で、時間が経てば自然と解決するという話は、実は大変おかしなものなのです。
これはなかなか理解されにくい事実ですが、喪失体験をした私たちは、一般の人が過ごす時間と、同じ時間軸にいても、実は感覚が全く異なっているのです。
これには実は問題が2つあります。
1つ目は、「喪失体験をしていない人には絶対に分からない」ということです。言葉は理解できてもその体感はできません。なぜなら伴侶を失っていないためです。どんなに言葉で説明されても分からないのです。
2つ目は、「私たち遺族がこの1番目の事実を理解していない」ということです。実はこちらの方が問題です。というのも、「時間感覚が違うのだ」という認識がない場合、冒頭のような周囲の意見に大きく影響を受けて無理をしてしまったり、間違った決断をしてしまったりと、グリーフプロセスにおける影響度合いが大きくなるためです。
時間薬は結果論
時間薬という言葉は、たしかに時間が経てば冷静さも多少は取り戻しますし、見える範囲も広くなるのは間違いありません。しかし、それだけの話です。経過時間が長くても短くても、自分自身がグリーフへの理解を深めなければ、10年経っても20年経っても悲しみはそのまま、自分の中に居座り続けるのです。
時間薬というのは、「自分自身の様々な思考、様々な(できる範囲の)行動、周囲のサポートなどによって少しずつ、少しずつ、愛する人との関係性を紡ぎ直し、自分自身の人生を再構築しているプロセス」を経て、ある程度自分が納得できる状態になった時、これまでのグリーフプロセスを振り返って「時間が経ったな」と認識するものです。
つまり、時間薬というのは結果論でしかなく、今まさに哀しみのどん底にいる人にとっては、「そんな未来のことを言われても、今を生きるのに精いっぱいでよく分からないし、そんな希望は持てない」というだけの話なのです。
グリーフの理解が進めば「腑に落ちる」
逆に言えば、自分自身のグリーフワークを自分のペースで進めることができれば、哀しみを収めるべきところ収められるかも知れません。それは誰にも分からない、自分自身のことなので自分で理解するしかありません。死別後、「自分はグリーフプロセスのどの位置にいるのか」「自分は進んでいるのかどうか」と確認しようとする人もいますが、これはあまりお勧めしません。
自分のグリーフは自分だけのものであり、誰かと比較するものではないからです。
それは考えればわかるはずです。愛する人はそれぞれ違い、共に人生を生きてきた時間、関係性などすべてが違うからです。厳密に言えば比較ができないのです。二人だけが知っていること、二人にしか分からないことが、数えきれないほどあります。それらを無視して「死別してから3年経ったけど、私は大丈夫なのか?遅れていないのか?」と考えること自体がナンセンスだと言えます。
あまりそういった面から考えるのではなく、それよりも「丁寧な生活を送る」ようにしましょう。
ベンチマークとしてのイベント
ベンチマークという言葉がありますが、指標などの意味を持っています。この指標をきちんともっていると、自分自身の肯定感を高めることができます。自分自身でその進捗度合いを測ることができます。
具体的に言うと、例えば、死別直後には以下のような法事や法要が発生します。
宗教等によって違いがありますが、ここでは日本で一般的とされる法要のみ記載しています。
- お通夜
- お葬式
- 告別式
- 初七日
- 四十九日
- お盆やお彼岸
- 百箇日
- 一周忌
- 三回忌
- 七回忌
- 十三回忌
- 十七回忌
- 二十三回忌
- 二十七回忌
- 三十三回忌
これらの法事や法要を順に進めていくわけですが、これらを執り行うのは心的負担も大きいでしょう。特に亡くなられた直後では大変な苦労が伴います。しかし、それでも「あの人のためにできるだけのことをしてあげたい」という想いから、自分のできる範囲で執り行うことは大変素晴らしいことです。
そんな中で、これらのイベントを行うと、これらのイベントが私たちにとってのベンチマークとなってくれるのです。
「ああ、あの人が亡くなって、とてもとても辛かったし、苦しいし、哀しい。あの人のお葬式なんてやりたくなかった。でも、こうやって今振り返ってみると、その時々のイベントに対して、自分なりに務めることができたし、あの人への愛情表現になったのではないだろうか」
このように思うことができるのは、その都度、一生懸命にイベントをこなしてきたからです。振り返った時に、自分の力でひとつずつ進めることができたという自信を持つことができます。
こうやって小さな、それでも確実なステップを踏んでいく事によって、自分でもできることが増えていきますし、ましてやそれが愛する人への大きな愛情表現になるとしたら、これほど素晴らしいことはありません。グリーフワークにおいてイベントというのは、自分にとっても重要な意味を持っていると言えます。
時系列で自身のグリーフプロセスを追いかけることができます。
「あの時は苦しくて仕方がなかったけれど、今は、少しだけ心穏やかな日を過ごせている」
という比較もできるようになります。
イベントは、無理のない範囲で、自分のできる範囲で対応することが自分自身のグリーフワークにもなります。
他人の時間に囚われない
このように、自分だけの時間の使い方を徐々にしていくことによって、他人の言葉に影響を受けなくなります。「3年もたったのだからそろそろ元気出さないと」といった(間違った)励ましに対して、自分の中で反論できないのはとても辛いことです。
それは愛する人を失った哀しみだけでなく、周囲が忘れていく中で自分だけが取り残されていく寂しさ、また自分自身がいつまでも泣いていてはいけないのではないかという焦燥感などが沸き起こってしまうのです。
しかしそれは大きな間違いです。何年経っても哀しいものは哀しいのです。辛いものは辛いのです。
ただその「哀しみ」は形を変えていくだけであって、3年経ったから元気を出さなくてはならないことにはつながりません。
「自分を大切にすること、自分の感情に正直であること、自分の価値観、考えを重要視すること」は、若年死別体験のない人生おいても重要なことですが、とくに喪失体験をしてからは、ますます重要になっています。
「他人の時間」を過ごすのではなく、「自分の時間」を過ごすようにしましょう。
その先にあるもの
何度も繰り返しになりますが、愛する人が亡くなってしまったという事実は変わりません。そしてその喪失体験とそこからくる深い哀しみは、消すことはできません。
時間が経てば変わるものではありません。では一生このまま苦しみ続けなければならないのでしょうか。
いいえ、そうではありません。哀しみを受け止めるための作業こそがグリーフワークなのです。
そのために、
- (無理のない範囲での)法事などのイベント等の実行
- 他人の言葉には耳を傾けすぎないようにする
- 自分の時間を過ごす(日々を丁寧に過ごす)
- 先のことはあまり考えず、目の前のことをひとつずつこなす
といった点を意識しましょう。
こうやって徐々に時間を自分のために使っていくこそ、自分だけの時間を大切に過ごすこと。まさにこれこそが私たちが大切にすべき「グリーフの時間」です。
この時間こそ、自分自身と、愛する人との絆を再構築してくれるのです。「グリーフの時間」というのは、本当は「大きな愛に満たされた時間」なのです。