コラム

死別体験者の哀しみは深まるばかり

哀しみは深まるばかり

死別体験者にとっては当たり前のことでも、体験していなければ分からないことが沢山あります。またそれらはなかなか理解されるものでもなく、それによって余計孤独を感じるため、死別体験者の哀しみは深まるばかりです。

いったいどういった点が哀しみを深めるのか、いったいどう対処すればいいのでしょうか。

体験していない人からは見えないもの

喪失体験というとやはり真っ先に思い浮かぶのは「愛する人の死」です。「誰かが死んだ」というのは誰にとってもショッキングな出来事ですが、それが自分の伴侶だったらどうでしょうか。

そのショックの大きさは比較できるものがありません。

そしてこの「喪失」にはいくつもの意味がありますが、当事者以外には気づかないことばかりです。

 

気づかれない哀しみ(二次的喪失含む)

上記のように、遺族は実際に2番以降の愛する人を失ったときから生活や社会性、精神性などの様々なものを失っているのです。ただ残念ながらこれらは外からは分からない、窺い知ることができないものでもあります。

つまりこのギャップが心無い言葉を作ってしまったり、二次的喪失と言われるものを生み出してしまうわけです。

ただ、皮肉なことにこの「気づかれない哀しみ」と呼ばれる部分の方が、遺族の死別後の生活に大きく影響を及ぼすことにもなります。

それは例えば「半年経ったからもう元気にならないと」という言葉だったり、「いつまでもくよくよしてないで、新しい相手を探そう」と紹介があったり、周囲からすれば完全に「善意」なのですが、遺族にとっては鋭い刃となって心に突き刺さり、傷つくのです。

 

体験者側からしか見えないもの

そして、体験者(遺族)は深い哀しみを押し付けられるプロセスに入っていきます。グリーフに段階説や課題などがありますが、いずれにしても死別直後には感じられなかったものが、徐々に時間とともに感じるようになり、より一層哀しい気持ちになるのです。

「時間が経てば良くなる、元気になるだろう」という一般的な観点からは想像できないのですが、実際には真逆の動きになります。どんどんふさぎ込むようになったり、ひどい場合には複雑性悲嘆、また鬱病などにも推移していきます。

日々の生活がまともに送れなくなるようであれば、医療機関等に相談すべきでしょう。しかしそうでない場合でも、(様々な面で)ギリギリの生活をしている人は多いものです。

毎日を過ごすこと自体が拷問のような感覚になります。

このように「あちら」と「こちら」には喪失体験、死別体験という明確な境界線が引かれてしまい、しかもその境界線は、死別体験者側からしか見えないのです。どこにその境界線が引いてあるかは、死別体験者によって個人差がありますが、日常生活において「自分はもう違うのだ」「自分はもう戻れないのだ」と感じることは非常に多くなります。

そしてそういう風に感じていることを周囲に理解されることはありません。

※あまりに周囲に話をし続けると「じゃあどうしろっていうの?」という意見や「そこまでの話は聞いてない」「暗い話は聞きたくない」という態度を取られることもあるため、どこまで話をするか、いつまで話をするかは加減が必要なケースもあります。

 

時間薬は存在しない

遺族は時間経過とともに哀しみが複雑により深くなっていくのに対し、周囲はそれを把握できないため時間経過とともに元気になってほしいと願うわけです。

このように「時間」という概念を基準に考えると双方の乖離が大きくなり、今度は「話せる場所がない」というように感じるようになります。

このように、時間による回復というのは存在しません。むしろ一部は理解が進み、また一部は苦しくなるケースがほとんどではないでしょうか。どんどん世界は狭く閉じていくような感覚になるのです。

この大いなるギャップは、周囲の方には今後もなかなか理解されることはないでしょう。ただそれよりも大切なことは当事者たる私たちが「ギャップがあるんだ」と理解しておくことです。

これによってショックを受けたりすることも減りますし、相手に期待しない分、多少なりとも穏やかに過ごせるようになればいいのではないかと思います。

 

今日はそんなことを想いながら過ごしています。

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dan325

10年ほど前に妻を癌で亡くしました。若年死別経験者。愛する人や大切な人の喪失や死別による悲嘆(グリーフ)について自分の考えを書いています。今まさに深い哀しみの中にいる方にとって少しでも役に立てれば嬉しいです。

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