喪失体験をすると、その哀しみや苦しみは想像に絶するものとなりますが、グリーフプロセスと密接に関係する「時間軸」を主として考えた時に、死別後、時間が経っても辛い状況というのは存在します。
「時間が経てばいずれ良くなるよ」「時間が解決するから」というのは、全くの嘘です。 それならば何故 5年、10年経っているのに哀しみから抜け出せない人がいるのでしょうか。
そういった「時間軸」を主にした一般論の押しつけ自体も大変危険な発想ですが、今回はなぜ哀しみの総量が変わらないのかを考えてみます。
死別直後のほうがラク?
死別後には、ほとんど多くの人がその事実を否定したくなりますし、信じようとはしません。実感がわかないというか、自分のことではなく、まるで他人事のように感じて涙も出ないということもあるでしょう。
「自分の大切な人がこの世を去った」という事実を(頭では理解していても)心では理解していない状態からのスタートとなります。
しばらく経つとグリーフプロセスは進みますが、死別したという事実を涙ながらに周囲に語り、また周囲もそれを聞いてくれる環境(状況)にあります。相手にもよりますが、基本的にはそういう状態になるため、泣いてもいい、泣くのは当たり前だと周囲は理解します。
しかしながら、これが1年、3年、5年と進んでいくにつれて、自分の哀しみを吐露できる場所や相手というのはどんどんと減っていきます。それは何故でしょうか。
3年経てば哀しくない?
答えは簡単です。自分自身が過ごした3年と、周囲が過ごした3年がまったく別物だからです。
周囲が見れば、
「まだくよくよしてるの?もう3年も経つんだよ。いい加減元気にならないと、亡くなった人だって浮かばれないよ」
「もうそろそろ再婚とか考えないとね。亡くなった人もそれを望んでるんじゃ?」
「前に進むことは亡くなった人も応援してくれているし、あなたが頑張っている姿を見てきっと喜んでいるよ」
といった感覚なのです。周囲の人にとっての故人の関係性と、私たち遺族と故人の関係性はまるで違います。3年も経ったんだから、哀しんでもいられないという不思議な圧力が生まれてくるわけです。
5年、10年も哀しんではいけないという世の中の風潮
ましてや、5年、10年も経つと「まだそんなこと言ってるの?」という態度を取る人もいます。時間の流れ方は違うのですが、それには気づかず「いつまで哀しんだって、亡くなった人は戻ってこないんだよ」という態度を取る人もいるでしょう。
つまり、当事者でない周囲の人間にとっては「自分のまわりで哀しい顔をしている人がいれば、元気づけたいと思うし、励ましたいと思うけれど、それが長引くと付き合いにくくなるし、こっちも暗くなる」という部分は、意識/無意識 関係なくあるのでしょう。
※ちなみにこれが悪いということではありません。別のケースなら逆の立場になっているかもしれないからです。
※10年も経てば、当事者自身も深い理解をしていたり、ある程度喪失や死別に対しての折り合いをつけているケースが多いため、顕在化しにくい部分ではありますが、確かに「またその話か」という態度を取る人もいます。「もう聞き飽きたけど、人が亡くなってる話だから邪険にはできないし」というところでしょう。
他者のそういう態度もみれば分かるようになったのも 10年という月日があったからこそで、矛盾を感じる部分もあります。
大切なのは時間ではなく自己理解
死別直後から比べると、明らかに話ができる場所が減っていく、聞いてもらえる人もいなくなっていく・・・・という状況はどこにでも起きていることでしょう。
ここで大切なのは、それに対して不平不満を言うのでもなく、自己としっかり向き合い、理解を深めることです。
冒頭のように時間が経てば解決するのではありません。
自分の中で、この起きてはならない哀しい出来事に対して、どう解釈し、どう意味づけするのかが重要なのです。
それが進むと、周囲に聴いてほしいという欲求はかなり減るでしょう。誰にもわからないだろうし、自分が理解すればいい、そしてそれを胸に人生を再構築するという部分までつながっていくからです。
グリーフワークは、亡き人と自分自身をつなぐ作業であり、ひとりでこなしているように見えても実は二人の共同作業だと言えます。相手のことを深く考え、自分のことを深く考えるというこの膨大な作業こそ、グリーフの真髄だと言えます。
周囲のことはあまり気にせずに、自己理解のための時間を過ごしましょう。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。