私たちが住むこの世界には、愛する人が存在していていつまでも一緒にいられるものだという前提で構成されています。しかし、残念ながら、図らずも愛する人と死別した私たちにとって、この世界はまったく別物になってしまったという感覚に陥ります。
いわば、新しい世界が眼前に迫っているといっても過言ではありません。
消えた連続性
グリーフ用語には「想定の世界」という言葉があります。これは文字通り、普段想像している世界ということです。具体的に言えば、「朝7時に起きて、朝食を食べ、歯を磨いて着替えて仕事に行く。夜8時には帰ってきて、お風呂、夕食を食べて寝る」という「今日もこうなるだろう」と想像できる世界のことです。
そしてここに、「大好きな旦那がいて、仕事の愚痴のひとつでも話ながら晩酌する」とか「家事を手伝ってくれない旦那に小言を言う」といったコミュニケーションがのっています。
しかしながら、それはあくまで「想定の世界」に過ぎず、明日どうなるかなんて誰にもわからないのです。
「想定の世界」はあくまで想定だけであり、今は全く違う世界にいるわけです。つまり、私たちにとっては強制的に分断された2つの世界を背負わされているといえます。
そこには、「こうなるだろう」という連続性が通じない状態であり、非連続性、突発的な出来事ばかりが発生することになります。「想定の世界」はある意味で「コンフォートゾーン」でもあり、安全です。
安全な世界が崩壊したことによって、危険な世界のように感じるのは何も不思議なことではありません。
2つの世界を行き来する
トーマス・アティグ「死別の悲しみに向き合う」では
「悲しむとは、愛する者に先立たれたときに自分の身に起こることに対するかたちの対応だ」
と述べています。
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これは言い得て妙で、新しい世界への対応を求められているということです。
愛する人を失ったからその人を置き去りにするのではなく、その人がいない空白部分をどのように保持するのかを含めての対応です。
何か無理矢理に趣味や友達を増やしてみたりということではなく、「空白を空白のままで置いておく」ことができるかどうか。(実はこれが一番難しいのですが)
これが哀しむ作業(グリーフワーク)によって培われていくのです。
もし私たちが「愛する人のいる世界」と「愛する人のいない世界」の2つがまるで違うものだと感じているなら、私たちはその間にかける橋を自分で作らなければならないということです。
これこそがグリーフワークであり、それが上手にできるようになってくると、多少の落ち着きと、いつでも心の中に愛する人がいるのだという安心感を得られることになります。
※そしてこれはまた別の機会に書きますが、「故人のいない世界」も案外捨てたもんじゃないということにも気づくのです。
誰かを愛すること素晴らしいことであり、それによって私たちの安心できる世界が構成されていることを、愛する人の死によって理解するのはあまりにも理不尽ですが、しかし私たちはそれをすでに知っています。
だとしたら、私たちが今できることもあるのではないかと思うのです。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。