グリーフを勉強していくと必ずと言っていいほど「役割」について知ることになります。
人生において誰もが役割を持っていてその役割を演じているが、喪失体験を通してその後の役割が変わってしまうという文脈で語られることが多いようです。
愛する人がこの世から去ってしまえば、彼らが担っていた役割は喪失され一時的に空白になります。
その空白はいつまでも空白にはならず残された人が代わりに役割を担い、また残された人たちの関係性自体も変化します。
自分が父親になる
例えばこんなケースを考えてみます。
- 夫婦と子ども 2人の 4人家族
- 旦那さんが病気のため他界
遺された2人の子どもと妻は、4人家族から 3人家族へと形を変える必要に迫られます。そして妻は(端的に言えば)子どもから見た場合には「父親役」もこなさなければなりません。
亡くなった旦那さんと同じキャラクターではないのでまったく同様ではありませんが、父親役という役割は引き受けざるを得ません。しかしそれは決して簡単なことではないでしょう。そもそも死別の衝撃もある中での「役割の変化」というのは、想像を絶するほどのインパクトがあるはずです。「夫、父親」という2つの役割を担ってきた人が抜けてしまう訳ですからその苦労は計り知れません。これは「役割」に限った話だけでなく、二次的喪失として経済的・社会的な側面にも影響することもあるでしょう。
※私自身はこのケースの当事者になったことはないため、実際の心理的な深い部分については分かりかねますのでご了承ください。あくまで一般的なケースを想定しています。
また逆のケースはどうでしょうか。
妻を失った夫(私ですね)は、妻が担っていた役割を自分でこなさなければなりません。男性が残った場合にネックになるのが「家事全般」だと言われます。確かに、炊事洗濯掃除といった様々なことをしなければならないのは(普段やっていなければ余計に)大変でしょう。
役割の変更は強制的
このように、突如としてやってきた新しい役割について私たちは拒否することもできずに一方的に押し付けられるようになります。とはいえ、「ああそうですか」とはなりません。
自分自身もそうでしたが、到底そんなものは受け入れることはできません。
そもそも、その役割をこなす能力も自信もないし、何より愛する人の死を認めたことになってしまうからです。
所属チームのレギュラーの差がたまたま空いてチャンスを獲得したスポーツ選手ではないのです。
強制的に押し付けられた以上は(手探りで)やらざるを得ないという事実があるだけでしょう。望んだポジションならまだしも、やりたくもないものを、心身が疲労している中で行うのは本当に大変です。
その変化には、ある一定の期間や理解が必要になるでしょう。トランジションの期間が重要になります。
失う役割もある
一方、新しい役割をこなすだけでなく、これまで持っていた役割が終わったり形を変えることもあります。 それは、家族の別の者が代替してくれることもあるでしょう。そして元の役割は不要になるケースもあります。
つまり、大切な人が亡くなるというのは、イコール家族構成が変わることと同義であり、家族構成が変わるということは、それぞれ担っていた役割の意味自体も含めて変わってしまうという事です。
このように、私たちはこれまで担っていた役割と新しい役割への適応を求められますが、残された家族にとっては、ただ哀しむだけではない「現実の日常生活」という中での役割の変更をその都度突きつけられるのです。
たとえば旦那さんが亡くなると、家の電球を変えられないといった些細な、しかしながら亡き人を強烈に想起させる小さな小さなイベントがおり、じわじわと心身に堪えるというエピソードや、役所などの手続きなどやったことないのに、全部自分でやらないといけないといったエピソードはよく聞くところです。
それでも少しずつ適応するしかない
そういうひとつひとつを、自分で行っていく中で「愛する人はもうこの世にいないのだ」という事実を徐々に間接的に認めていくことになります。まさにこれはグリーフワークであり、グリーフプロセスだと言えますが、私たちにとっては苦しい作業以外の何物でもありません。
個人的には、難しければ外注してもいいと思いますし、できないものはできないでいいのではないかと思います(生活に支障が無ければ)。
今の世の中は様々な代行サービスもありますし、それで納得感が得られるのであれば、新しい役割を受けたとしても実際の作業は外注化するというのはアリだと思います。
自分でやる、外注する―いずれにしても、新しい役割への適応は避けることができません。
新たな役割に適応できれば自分のスキルアップになるでしょうし、できなくても別に困らないのであれば、それはそれで別にかまわないのではないかと思っています。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。