人は「愛している」という言葉を使います。しかしその「愛」は人によってさまざまです。たとえば「愛している」という言葉で相手を拘束しようという者、「愛している」からという理由で自分勝手な言動で相手の興味を惹こうとする者、「愛している」からこそという理由で、相手を虐待する者・・・すべて都合よく「愛」を隠れ蓑にしている勝手な解釈もあります。もちろん、大切な人に対して恋愛感情を持ち、それが愛に繋がっていくことも多いでしょう。
また愛の種類には「親子」や「兄弟」といった家族愛や、社会貢献などの公共性の高い愛、また伴侶や配偶者、恋人同士などの「愛」もあります。
このように「愛」には様々な「愛の形」や「愛の表現」があります。
一概にどれが良い悪いというのは価値観や解釈の違いがあるために申し上げにくいですが、本サイトでは愛の定義は以下のようにします。
愛の定義=「愛とは赦すこと」
これは、キリスト教などの様々な宗教と重なる部分も多いのですが、愛とは赦すことであるというのは真実でしょう。
改めて愛とは何なのかそしてどうして愛とは赦すことなのかを解説します。
愛するということ
まずはじめにご紹介したいのはエーリッヒ・フロムの「愛するということ」という有名な本です。
世界的なベストセラーであり今も売れている名著です。「愛」について解説されていますが、ここでは愛することの定義を引用してみましょう。
愛、それは人間の実存の問題に対する答え
冒頭に登場するこの一文こそが、フロムの言わんとする「愛」についての答えです。しかしこの「愛」の定義を日々実践するのは簡単ではありません。
それでも「究極の愛」ともいうべき姿がこの中に描かれているのは疑うことができません。
フロムは、愛には「兄弟愛」「母性愛」「異性愛」「自己愛」「神への愛」があるとしていますが、このサイトではかつて他人であった伴侶、配偶者をメインとして愛についての解説を行います。
※フロムやその他の多くの研究者や学者、著名人の定義する「愛」についての解釈は別途コラム等で取り上げていく予定です。
フロムは、愛とは技術であり、孤独である人間がより幸福に生きるために必要な最高の技術だと述べています。
「愛が技術だ」というのは、一見不思議な感じですし、受け入れにくいものかもしれませんが、その理論は奥深く一読に値する内容です。本サイトのテーマでもある「愛」を真に理解せずしてグリーフを理解するのは難しいのではないかとさえ思います。
この名著から「異性愛」について引用してみます。
異性愛について
異性愛とは、他の人間と完全に融合したい、一つになりたいというつよい願望である。異性愛はその性質からして排他的であり普遍的ではない。(中略)異性愛においては、人は相手を通して人類全体、そしてこの世に生きている者すべてを愛する。(中略)誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。もし愛がたんなる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束にはなんの根拠もないことになる。感情は生まれ、また消えてゆく。もし自分の行為が決意と決断にもどついていなかったら、私の愛は永遠だなどと、どうして言い切ることができよう。
このように「愛とは赦すこと」の解説と、フロムの「愛の定義」は異なる部分もありますが、あくまで「大切な人を喪失した」という側面から「愛とは赦すこと」であり、またそれはどういう意味でどういう解釈をすればいいのかを解説します。
1. 愛とは赦すこと
愛とは赦すことだと言われてもピンとこない方もいるでしょう。これを理解するのはなかなか難しいですし、実際に「腑に落ちる」ところまでいくにはかなり時間がかかるのではないでしょうか。しかしこれがまさにグリーフプロセスの根幹だとすれば、取り組んだ後には、きっと自分なりの愛を実感できるのではないかと思います。それこそが亡くなったあの人を愛すること、愛し続けることに繋がってくるでしょう。
2. 赦すこととは手放すこと
では「愛」を理解するために、その結論である「赦す」ことというのは具体的にどういったことなのかを考えてみましょう。
「赦す」という作業は、「罪を赦す」という表現でも使用されますが、ここでは「手放す」という意味で説明したいと思います。
「手放す」というのは、実際のところ、なかなかどうして簡単なことではありません。人は執着心を持っています。モノにもコトにも執着する人は少なからずいますし、ヒトに執着すれば、究極はストーカーのようになってしまう可能性も孕んでいます。
「手放す」というのはそれらを少しずつ「あきらめる」ことでもあります。自分自身が気になるコト、気になるモノがあるなら、「それが無くても大丈夫」と思えるようになったり、気になるヒトがいるなら「自分がいなくても大丈夫」と思えるようになれば、その「対象への自分自身の感情」を手放していると言えます。
3. 大切なものだけにフォーカスすること
「手放す」というのは逆の見方もできます。これはどういうことかというと、100 個のうち、99 個は手放して、たった1つのものだけに集中するということです。
「すべてを手放す」というのは凡人には難しいことですが、「1つのことに集中する」ことによって残りを(結果的に)手放していたという状態は作りやすいのではないでしょうか。
スポーツ選手がたったひとつのスポーツのために、そのほかのすべてを捨てたり捧げたりするのも似ているかもしれません。
もちろん、たった1つのことは「大切なもの」である必要がありますが、大切と思えるかどうかは「自分自身の価値観」に依るところが大きいので、自分自身の中に答えがあります。
自分の価値観に沿った「大切なもの」だけにフォーカスすれば、それ以外は手放すことになります(手放さざるを得ないといういい方もあるかもしれません)。
4. 大切なものとは、愛する人の存在そのもの
ではその「大切なもの」とは何でしょうか。若年で死別した私たちにとっては「愛する人」の存在そのものではないでしょうか。愛する人からもらったプレゼントや形見、また愛する人からかけてもらった言葉や行動など、それもまた素晴らしい大切なものです。
しかしこれらは、すべて「大切な人」自身から発信されているものですから、本質である「大切な人」さえいてくれたらきっとそれは素晴らしい世界になるはずです。
自分がこうしてほしい、ああしてほしいといった「エゴ」を主張するのではなく、愛する人の存在そのものが、自分よりも大切なものであると言えます。
つまり、「自分のことが大切」というよりも「愛する人が大切」という心境になる時、私たちは「エゴ」を手放し、大切なものにフォーカスできるわけです。
5. 愛とは、エゴを捨て愛する人をありのまま受け入れること
これまで、「愛とは赦すこと=赦すことは手放すこと、または大切なものに集中すること=大切なものとは愛する人の存在」と述べてきました。そこには自分の「エゴ」よりも、大切な人や愛する人が主語となる考えがなければなりません。
では、愛する人の存在そのものが大切なら、そこに生死の境はあるのでしょうか。
当然、生死の境は関係ありません。「生きていれば大切、死んでしまえば大切ではない」ということはあり得ません。
哀しみを抱えた私たちが、哀しみを抱え続ける最大の理由は「愛する人の死」だからです。愛する人の「死」が私たちを悲しませるのだとしたら、「死んでしまったら大切だとは思わない」という発想にはなりません。
「生きていても、亡くなっても大切な人は大切な存在であることに変わりはない」というのが真理です。
6. 愛する人がどんな状況、どんな状態、どんな条件であってもそのまま受け入れること
自分の命よりも大切な存在、愛する人がいれば、私たちはその人がたとえどんな状態であったとしても、それらを含め、全人的に愛することができるでしょう。そして大切な存在であることに感謝し、それだけに集中することによって、自分自身のエゴよりももっと大切な感情を抱くことができます。
自分自分よりも大切な人がいれば、どんな状況でもどんな条件でも、そのまま受け入れることができるようになります。
それが「愛」の正体です。
受け入れられる自分、それが自分を赦すことに繋がる
つまり、愛とは、どんな状況、状態、環境、条件下にあっても自分自身よりも相手に想いを馳せ、それ以外を手放す(=赦す)事によって、相手をそのまま受け入れることであり、そして「その相手を受けいれている自分」さえもそのまま受けいれられる時、愛とは赦すことなのだと理解することができます。
最初に自分の感情ばかりに向き合ってしまうとそこで立ち止まってしまいますし、大抵はそうなりますが、それでも徐々に「大切な人ファースト」というべき行動をとる時、それが大きく、ぐるっと巡り巡って、自らの赦しにつながるのだと言えます。