コラム

衝動

グリーフプロセスは有名な「死の受容のプロセス」をはじめとして様々な段階説が存在します。

そのどれもが深い研究から導き出されたものであり、疑う必要もありませんが、必ずしもその通りに進むかと言えばそこにはやはり個人差が存在するのであくまで参考程度に理解しておくことは必要でしょう。

またこれらのプロセスを頭で理解しているからと言って、実際にその状況ではどのような対応をすべきなのかは具体的には書かれていません。研究はそういうものなので仕方ないのですが、実際に死別をした遺族からすれば、具体的な対応策を知りたいと思うのは当然の帰結です。

とはいえ、経済状況や地域なども固有差があったり、その他様々な要因のため具体策を提示しにくいというのも事実です。

今回はその中の一つである「衝動性」について解説します。

突然やってくる、独りになりたい時と独りでいたくない時

人間が不幸を感じるときの理由のひとつに「自分でコントロールできない状態」というのがあります。例えば愛する人の死を自分の力で止めることが出来なかったとしたら、そこには無力感を感じます。逆に「何でもできる」と思える状態は万能感に満ちており、この時は幸福度は高くなります。

伴侶の喪失をはじめとして、天の配剤や運命のせいにしてしまいたい私たちはこの条件で考えると明らかに不幸です。一切自分のコントロールが効かない状態を強制的に与えられているためです。

そして恐らくこの事実によって内面にも大きな影響を受けてしまうのです。

それが顕著にあらわれるのが突然やってくる衝動的な感情です。例えば実家に帰って家族と一緒にいたり、友人と過ごしているときにもそれは唐突にやってきます。自分でもいつそれが起きるか、また何故起きるのかがわからないので、心の準備ができません。

もの凄く苦しいわけです。動悸がして汗が出たり息苦しくなったり。恐らく何らかのトリガーがあるはずですが、それを冷静に考える余裕はありません。

いわば発作的に出てくるものなので、その原因と思われるものを取り除くしかないのですが、それは家の中に居ても外に居てもあります。

急激な哀しみとでもいえばいいのでしょうか。大切な人の遺品とともに過ごす自宅は、心地よく、またその分哀しみも大きく、その振り幅がかなり大きくなっているのでしょう。

涙が浄化してくれる

こういった衝動的な感情や気持ちと向き合いながら「ああ、またやってきた」と思い、泣いて過ごす時間が増えていきます。涙が止まらないのは衝動的な感情のせいでもあります。

そしてそんな時に(タイミング悪く)周りの人から声をかけられたりすると非常に苦しくなります。

とにかく一人になりたい。泣きたい。ただひたすらそれを願う瞬間がある一方で、途端に寂しさに胸が押しつぶされてしまいそうな時もあります。誰でもいいからそばにいてほしいと思うのはそんなときでしょう。

ただし本当にそばにいてほしい人はいてくれないため、孤独感というのは倍増してしまいます。

そしてこういった経験は死別体験者にしか分からない事であり、「ほっといてほしい」「でも今は一緒に居てほしい」という気持ちが交互にやってきていることを、いちいち説明することもできません。

内面ではそういうことがずっと発生していて、それだけでも身が持たないくらいですが、やはり涙を流す事によって多少なりとも癒されていくということは言えるでしょう。泣けないケースでもそのほかの感情表出方法を使用することで哀しみを受け止めることになります。

一番よくないのは、自分の感情に蓋をして見ないようにしてしまうことですが、その場合は少しずつでも自分を赦してあげること、泣いてもよいのだと許容してあげることからスタートしましょう。

このように、私たちは衝動的、発作的な感情の動きについていくことができません。しかしながら、その衝動の頻度は徐々に下がっていく事は救いとなるかもしれません。

 

今日はそんなことを想いながら過ごしています。

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dan325

10年ほど前に妻を癌で亡くしました。若年死別経験者。愛する人や大切な人の喪失や死別による悲嘆(グリーフ)について自分の考えを書いています。今まさに深い哀しみの中にいる方にとって少しでも役に立てれば嬉しいです。

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