「死とは何か」-私たちすべての人類にとって、もっとも深淵で、簡単に答えの出せない問いのひとつです。
この問いに対する答えを求めようとするとき、生きている人は「正解」を見つけることができないため、宗教的な側面や物理的な側面、スピリチュアルな側面からなど、様々な考えが世の中に存在します。
概念的な「死」を考える際にも、私たちが実際に考えているのは「愛する人の死」であり「自らの死」であると言えます。ですから物事を大きくし過ぎることなく、身近な「死」を見つめることでしか、答え(のようなもの)を出すことはできません。
「死ぬ」ということ
では、あなたにとっての「死」とは何でしょうか?それは一言で表すことができるものでしょうか?それとも文章にしないと表現できないものでしょうか?
様々な人が語る「死ぬ」ということの一例をご紹介します。
- 肉体が機能しなくなったときを「死」と捉える
- 肉体は機能していても他者との意思疎通ができなくなる
- 愛する人の「ただいま」の声がない(家に誰もいない)
- 触れることができない、抱きしめることができない
- 話をすることができない(返事がない)
- 無気力、無目的な時間を過ごしている
- 身体機能をはじめ、気力も体力も衰え改善する意欲もない
- 一緒にご飯を食べられない
このように、「いままで当たり前のように存在していたものが消えてなくなっている状態」、つまり「喪失」を伴う現象や状態を死と呼ぶことができそうです。なお、これらはあくまでサンプルですので、学術的な側面からのアプローチや概念は多くの哲学者が研究していますのでこれらを参考にするのも良いでしょう。
または自分自身が納得して理解できるものであれば、何も難しい解釈をする必要もありません。いずれの場合でも、自分が一番しっくりくるものかどうかということが、あなたにとっての「死」だと言えます。
※医学的や法的に死とはこうだ、という定義はありますがこのサイトでのテーマはあくまでグリーフであるため、テーマに沿った「死」を取り扱っています。
「死」の意味付け
死を定義することは、つまりそこに意味を見出すことになりますから、「愛する人が死んだ」という文章の背後には、「自分だけの、隠された大いなる文脈」が存在することになります。
その文脈が腑に落ちて納得できるものであれば「愛する人の死」は、やがてくるであろう「自らの死」にもリンクするでしょう。
逆に脈絡のない「死」は、時に残酷であり、時に事実として時間軸の中に「楔(くさび)」として打ちこまれるもののため、遺族が(良くも悪くも)そこに引っ張られてしまうという磁力があります。
だからこそ、その事実だけではなく「愛する人の死」の定義がなければならないと考えます。大切な人を失った時に、「亡くなりました」「ああそうですか」という訳にはいかないのです。
死の解釈をすると生も理解できる
様々な学問的な側面からも、また個人個人の感覚的なものでも、「死」というものがそれぞれが異なるというのがお分かりになることでしょう。
だからこそ、「死を理解する」ということを誰かと共有するには限界があるため、「死とは何か」という問いに対する答えは(厳しいかもしれませんが)自分で時間をかけて納得できる答えを見つけなくてはならないのです。
そして、この「死とは何か」を自分なりに定義づけし、解釈し、納得できたときに、その反対語である「生とは何か、生きるというのはどういうことなのか」も明確になってきます。
死を知り、生を生きる。死を知ることによって私たちが得られるものは多くあるのです。