コラム

非日常を日常にすること

「想定の世界」という言葉があります。私たちは常に想定の世界に生きています。

何気ない日常。あの人のいる日常。愛する人が目の前で微笑んでいる日常。そういった世界が永遠に続くと思っていたわけで、これがまさに「想定の世界」だったのですが、実際にはそうならなかったわけです。

想定していたものが崩れ去った時、私たちはいったいどうすればいいのでしょうか。

想定の世界の崩壊

すでに習慣化し、無意識レベルまで落とし込まれている行動は、そのほとんどが「こうなるであろう」「これからも変わらないだろう」というものです。そういう無数の「想定」が私たちの日々を作っているのですが、これに気づくこと自体が少ないため、失って初めて気づく人が多いのです。

朝起きればあの人の「おはよう」があって、夜になればあの人からの「おやすみ」がある。

そんな当たり前を過ごしてきたにもかかわらず、ある日突然それは崩壊します。予期しない事態に遭遇した時、私たちはそれを受け入れることができません。グリーフプロセスが「否定」から入るのはそのためです。

まさに「終わりの始まり」です。

 

非日常生活の始まり

あの人がいた生活、あの人がいた人生がまるで嘘だったかのように、その後の人生は一変します。傍から見れば何も変わっていないように見えるかもしれませんが、その内面は大きな変化についていけず押し流されているのです。

朝起きてもあの人の「おはよう」はありません。夜になってもあの人からの「おやすみ」は聞こえてこないのです。

静かすぎる部屋に家電の動く音だけが鳴り響き、人の気配がありません。生活音は自分が出すものだけ。これが新しい生活の始まりです。

到底、これが普通、これが日常とは思えずこんな日々が続くなんてと耐えられなくなります。

大切な人が存在する世界こそが「日常」であり「人生」であるはずです。それなのに、今自分は違う世界を生きている。これほど辛く哀しいことはありません。

「非日常」を「日常」にするために

想定の世界が崩壊してしまった以上、その崩壊された場所で生きていくしかないのですが、それは毎日、毎時間に「孤独」を味わうようなものです。

愛する人の生前と死後ーこのたった1日の差が、遺された者の心を搔きむしり、蝕んでいきます。

今の生活など無くなってしまえばいいとさえ思うわけですが、世の中は無常にも進んでいきます。死別後の生活は急速に輝きを失っていきます。

このように何年も過ごす中で、徐々に「大切な人の不在」を含めた生活リズムが確立されていきます。

今の生活や人生を肯定する必要がある

私たちはどうもがいても抗っても、亡き人を取り戻すことはできません。この事実は揺るぎないものとしてこれからも一生、心の中に鎮座し続けるのです。

しかしだからこそ、今のこの「非日常」の人生を(諦め)、認め、生きていくしかないのです。

グリーフワークやグリーフプロセスは、まさにこの「非日常」を「日常」に変えるためのプロセスなのです。

大切な人を失った人生、想定の世界から飛び出してしまった人生。これらを自らの人生なのだと受け止めるためには相応の努力が必要です。文章で書くほど簡単なことではありません。あの人の面影は、生活の至る所にあり、常に見えているからです。

そういう人生を進まなければならないとしても、多くのことに折り合いをつけ、生きていくことはできます。大切な人、愛する人を失った私たちだからこそ、愛することの素晴らしさを知っており、またいつ死んでもいいように(いつあの人に会ってもいいように)、今を懸命に生きるしかないのだと思います。

今日はそんなことを想いながら過ごしています。

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dan325

10年ほど前に妻を癌で亡くしました。若年死別経験者。愛する人や大切な人の喪失や死別による悲嘆(グリーフ)について自分の考えを書いています。今まさに深い哀しみの中にいる方にとって少しでも役に立てれば嬉しいです。

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