あの世はあるのでしょうか。天国は存在するのでしょうか。
正直なところ、喪失体験をするまでそんな命題は大した意味などありませんでした。どっちであっても自分には関係ないし、そこまで真剣に考える必要もなかったわけです。
しかしながら、自分のすぐそばに「死」がやってきたことにより、冒頭の命題を真剣に考えるようになりました。人は死んだらどこに行くのだろうとその答えを渇望していました。
【死別後に持っていた疑問】
・なぜ自分ではなく妻が死ぬのか
・なぜ妻だったのか
・亡くなった後の妻は元気でやっているのか
・妻は天国に行けたのだろうか
・妻に自分の最後の言葉は届いてたのだろうか#死別 #グリーフ— dan325@若年死別者のためのグリーフ情報 griefportal.net (@dan3256) June 10, 2021
もちろん、あちらの世界というのは「あの世」のことであり「天国」のことです。それと対をなすのがこっちの世界であり、「現世」「生きている人たちの世界」です。
今は、こっちの世界があるなら、あっちの世界があるだろうという理屈に納得はしていますが、それは直接的に「あの世」があることの証明にはなりません。存在の証明はできていないため、ちょっと気持ち悪い感覚はあります。
これは様々な価値観があるので個々人の考え方、信じ方で良いと思っています。
自分自身では、直接的な証明はできないけれど、妻は天国で楽しく過ごしていると信じているため、あっちの世界は存在するのだろうという気持ちでいます。
もうひとつの「あっちの世界」
グリーフプロセスが進んでいくと自分自身の知識量も増え、価値観に影響を及ぼすようになります。あれだけ知りたかった「あっちの世界」の存在も、いつしかさほど気にならなくなりました。理由はよく分かりません。
それよりも、あっちの世界は、もうひとつあることを感じるようになりました。それは、「死に限りなく近いグリーフの世界であり、現世に生きていても心ここにあらずの状態」という意味です。
近しい記事を以前に書きました。
これは図解するとこんなイメージです。
この世界に強制的に引きずり込まれているのですが、いつしかそこがベースとなってしまっていて、そこからもとに戻るというのがすごくしんどくなるのです。
そしてそれは自分でも気づかないし、外見からは分かりません。でも、悲嘆感情をはじめとした様々な気持ちが整理され、落ち着いてくると、ある種、過ごしやすくなっていると感じることもあります。
哀しみの中にいることで自分自身の存在を認識することが強すぎてしまうわけです。
世界を股にかける
その是非については、冒頭の「天国があるかどうか」といったテーマと同様に、個々人の価値観に委ねられるものだと思いますので特に言及はしません。
その上で、自分自身は「こっちの世界」への再構築は進んでいる感覚はあり、また、グリーフの世界も自分の人生において当然最重要であるわけで、現状としてはいわば「世界を股にかける」ようなイメージでいます。
両方の世界に足を突っ込んでおくことで、時にはバランスを変えたりしながら、どちらの世界でもフラットに生活できるようになってきたかなと感じています。
そして自分が死ぬときには、グリーフの世界からさらに一歩進んだ、妻のいる「あっちの世界」に行くことになるのだと確信しています。
あっちの世界への理解が深まれば深まるほど、こっちの世界の価値は高くなりますし、不可逆であるからこそ、ひとつの世界にかけるパワーは最大化しなければならないと感じています。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。