大切な人を失うと「せめて自分だけはあの人のことは何も忘れたくない」という気持ちが強くなります。周囲の記憶からは薄れていく中で、遺族は決して忘れるものかという決意を新たにします。
今回のタイトルは、「死別の悲しみを癒すアドバイスブック」(キャサリン・M・サンダーズ著)からの引用です。
忘れてしまうなんてあり得ないというプレッシャー
「愛する人のことは自分が一番よく分かっている」という自負があるからこそ、「あの人のことは絶対に忘れない」と誓う訳です。
もし1つでも忘れてしまったら、大切な人が忘れられ、消え去ってしまうのではないかという恐怖に駆られます。
そんな寂しいことはさせないし、だからこそ、忘れてはいけないし、忘れるなんて言うことはあり得ないわけです。しかしこういう発想自体が弱った自分自身に突きつけるプレッシャーにもなっています。
(もちろんそれがあるから行動できているという側面もあります)
しかし、総じてネガティブな方向になりがちで、忘れること=罪のような公式が無意識に出来上がってしまうのではないでしょうか。
忘れてしまった細部
実際、経年によって忘れてしまうことも多くなります。とても残念なことですが、どんなに抵抗しても忘れてしまうのです。
例えば、身体で考えてみましょう。
「亡くなった人の指先や手の形、皮膚の色、ほくろの位置など覚えていますか?」
※意外と覚えているのは、声、仕草、口癖などです。
どうしても思い出せない部分があったとき、どんな気持ちになりますか?「なぜ思い出せないのか」と自分を責める気持ちでしょうか?または、「忘れてる自分はなんて薄情なのか」という気持ちでしょうか。残念ながら細部を完全に覚えておくのは不可能です。人間はそもそも忘れる動物だからです。
細部に渡り覚えておくには外部記憶装置にすべてを記録しなければなりません。でも実際にはそんなことはできません。いったいどこまで記録すればいいのか線引きも難しいからです。
忘れる自分も赦す
このように、忘れてしまう自分は最低だという見方をしがちですが、サンダーズは、このように解説します。
「忘れる」ことは「手放す(死を受け入れ故人を逝かせてあげる)」ことを意味しています。でも、愛する人を「手放す」ことなどできるわけがありません。これは悲しみのプロセスの中で最もむずかしいことの一つです。
誰かと強く結びついている場合、その人を「手放す」ことはあまりにもつらく不可能に思えます。それは私たちの心の奥に潜む最大の恐怖-見捨てられることの恐怖-を思い起こさせるからです。私たちは子供時代に受けた心の傷をふたたび経験させられます。死別の悲しみが恐怖と非常に似ているのはこのためです。見捨てられることへの恐怖の記憶は私たちの誰もがつねに持っています。
でも、この恐怖に打ち勝ち、過去に対して、つまり愛する人といっしょにいたいという決して報われない願いに対して別れを告げない限りは、悲しみのプロセスを最終的なゴールへと導くことはできません。
手放すこと、忘れることは同一だと言っています。
本サイトでも赦すことは、手放すことであり、それこそが真実の愛だという定義をしています。
つまり「忘れることは愛ではなく、執着心ではないか」という問いが存在しています。
この問いに対してどう回答するかは個人差があると思いますが、もし忘れることができれば、その恩恵で「思い出すこと」ができるようになります。
とても穏やかな気持ち、優しい気持ちで愛する人のことを思い出すことができますし、それによって自然と笑顔になります。
少なくとも「忘れるもんか」と思っているときには、愛する人のこと思っていても、笑顔になるのは難しい気がします。大抵は哀しみに暮れているのではないかと思います。
不思議なもので、自然に忘れることができるようになると、自然に思い出したときにとても嬉しい気持ちになるのもまた事実なのです(寂しさはゼロではないが、小さい)。
このように、サンダーズの言うとおり、「忘れることはじょうずに思い出すこと」が実践できるかどうかは、グリーフプロセスの進捗度合いのひとつのベンチマークになるのではないでしょうか。
なお、今回の書籍のほか、おすすめの書籍を記載していますのでご興味があればご覧ください。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。