グリーフプロセスの初期では、愛する人の死があまりにも大きすぎるため、自己防衛本能が働き、愛する人の死を受け入れることができません。
「聞き間違いだ」「何かの間違いだ」「それはウチの話ではない」といった完全否定から入るのが一般的でしょう。
ところが残念ながらその事実は間違いでもなく、事実であり、いつしか受け入れざるを得ないとしたら「どのように受け入れるか」が問われています。
辛い事実を真正面から認める
大切な人がこの世を去るー これほど辛い事実はないでしょう。実際、すぐに受け入れる人は皆無のはずです。逆説的ですが自分にとって大切でない人が亡くなったとしても、それは自分以外の誰かにとっては大変な出来事であり、自分には影響はない、と感じるはずです。
当たり前ですが、私たちがショックを受けるのはその対象が「愛する人限定」だからです。
だからこそその事実を認めたくない。認めてしまうと自分が壊れてしまいそうだし、もう二度と会えなくなりそうな気がするからです。「あの人がいない」という状態をイメージできないし、適応もできないからです。
まずはこの「大切な人はすでにこの世にはいないのだ」という事実を(受け止めるのではなく)認めるところがスタートです。
でも一度で認められるわけではない
認めるところがスタート、といってもそんなに簡単なことではありません。私自身もそうでしたが、100%全力で否定しているからです。
「死ぬ」ということを理解できないため、絶対に受け付けません。それを受け付けてしまえばすべてが終わってしまうからです。だから死んでも認めない。何が起きても、それだけは認めないというくらい頑なになります。
でも、時は残酷でお葬式や四十九日、百箇日など現実世界の出来事は発生し、過ぎていきます。その事実と対峙しながら、徐々に愛する人の死を認め始めるようになります。
何度も何度も、この葛藤を繰り返し妥協し、負けたという感情もありつつ、認めていく事になります。
やがて「もう元には戻れないんだ」ということが腑に落ち始めるようになります。
認めてからがグリーフのスタート
認めてしまうと楽になるわけではありません。また一度認めたからといって、それは「愛する人の死」全体を認めたことにはなりません。例えば、お正月に故人宛ての年賀状が届いたり、DM が来たりします。これらは非常に残酷です。
「普通ならいるはずの人」に送られてくる郵便物が逆に「今はもういないのだ」という冷たい現実を突き付けてくるからです。
こんな小さな出来事がふいに何度もやってきます。そのたびに「愛する人の死」を何度も何度も認めるしかないのです。
このことがどれだけ私たちの心を深く抉るか、想像に絶する哀しみがやってくるでしょう。何度も何度も「ああ、あの人はもういないのだ」と自分に言わなければならないのは、どれだけ酷なことか。
でも認めなければ始まらない。
そのジレンマの中でようやくスタートを切るのです。それは外側からは決して窺い知ることのできない、自分だけの静かな葛藤です。
しかし、長い長いその道のり、その先に自分だけが享受することができるギフトがあることもまた事実なのです。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。