コラム

予期悲嘆と実際の悲嘆はまったく別物という話

「予期悲嘆」という言葉があります。私自身は当時この言葉は知らず、実際にはコトが起きてから知り、「そうか、あの時の何とも言えない感情は予期悲嘆だったのか」と気づいた程度です。

死別には予期悲嘆というステータスがあるのだと知っておいても損はしないかもしれません。

予期悲嘆とは

予期悲嘆とはこちらのサイト「がんナビ」によると

予期悲嘆とは、患者さんやその家族が死を予期したときに生じる正常な喪のことをいいます。予期悲嘆では、患者さんの没後に家族が経験するものと同じ症状が数多く現れてきます。この悲嘆には、予期されている死に関する思考や感情、文化的・社会的反応で、患者さんとその家族が感じるもの全てが含まれます。

https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/cancernavi/series/manual/201008/100494.html

という説明があります。

大切な人が亡くなる前から、私たちはすでに哀しんでいる。悲嘆に暮れているということです。

私自身、「ああ、もう少しで妻は亡くなってしまう」と想像したのを覚えています。しかしながら、正直な所、やっぱり良く分からない状態でした。

・「死」というものを理解できない

・「愛する人」が死ぬということを想像できない(出張に行くとか、数日会えないとか、その程度の感覚)

・本当にこの先一生会えないということが想像できない(恋愛でフラれても、相手が生きているケースは多い)

何といえばいいのか、どこか他人事のイメージを払しょくすることはできませんでした。

結局、予期悲嘆は個人差のある想像でしかない

実際には、妻が亡くなってから初めて実感するわけです(しかも徐々にその波は大きくなります)。

死別後の本当の悲嘆とは全く違うと。結局のところ予期悲嘆なんて必死になって想像するだけで、何の役にも立ちませんでした。

「死ぬかも、死んじゃうのかも」なんていうのは私にとってはほぼ無意味な状態だったので、実際に「愛する人が亡くなる」という事態を目の当たりにしないと、信じることなどできなかったわけです。

医学的に、看護学的に、「こういう段階があるよ」と知るのはすごく有効だし、周囲の理解も得られるのだと思います。

しかし遺族にとっては(少なくも私にとっては)あまり意味のない悲嘆だったと言えるでしょう。

それに、「愛する人の死を最も望んでいない人間が、実は、本人が亡くなる前から、愛する人の死を一番想像している」なんて信じられないくらい残酷です。

そういう人としての浅ましさ、罪悪感、動物的なエゴなどが余計に苦しかったのを覚えています。自分のことを鬼畜だと思いました。

ただこれらもあくまで自分自身の感覚であり、二人の関係性や文脈によっては予期悲嘆で強い痛みを感じる人もいるかもしれませんし、まったく逆かもしれません。

つまり予期悲嘆自体、かなり個人差があるものだという事です。

※そもそもグリーフ自体が個人的なものであるので、当たり前と言えば当たり前ですが。

実際に起きた事実を受け止める

残念ながら愛する人と死別したという事実を変えることはできませんし、こちらの心の準備があろうとなかろうと、その事実は唐突にやってきます。

事実は突然目の前に現れ、「さあ、どうする?」と人生の意味を問いてきます。

そして私たちはそれを受けとめきれない訳です。だからグリーフワークが必要だし、長いグリーフプロセスに突入するわけです。

この厳然たる事実を受け止めるには膨大な時間が必要になるのも、予期悲嘆が(ある意味)あまり機能していないという証拠になります。

つまり、予期悲嘆と実際の悲嘆はまったく異なる別のものであると言えるわけです。

今、まさに予期悲嘆の只中にいるならひとつ言えることは「後悔を最小限にする」行動をとるべきということです。

それは自分にとって後悔が少ない行動、そして愛する人にとって後悔が少ない行動の両方です。

今日はそんなことを思いながら過ごしています。

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dan325

10年ほど前に妻を癌で亡くしました。若年死別経験者。愛する人や大切な人の喪失や死別による悲嘆(グリーフ)について自分の考えを書いています。今まさに深い哀しみの中にいる方にとって少しでも役に立てれば嬉しいです。

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