将来を誓い合った相手を突然失うことは、誰しも想定していないでしょう。「想定の世界」にはあり得ない事態だからです。
しかし図らずとも経験してしまった私たち。そしてまだ経験していない周囲との違いは、ことのほか大きく、それらが「可哀想」という言動につながることもあります。
私たちはそんな言葉を投げかけられた時、いったいどうすればいいのでしょうか。
若年での死別体験はレアケース
人の死というのは、(一般的に言えば)高齢になるほど発生しやすくなり、若いときの「死」は遠いものとされています。
ところが、人生は誰一人同じではなく、一般論が通用しない世界でもあります。「まさか自分が」ということが人生には起きるわけです。その中のひとつ、若年での死別というのは誰もが予想だにしなかった事態であり、対処法もありません。(実際、私自身もそんな計画はどこにもありませんでした)
このレアケースに陥った時、自分はどうなるのか、周囲はどうなるのか、そして周囲との関係はどうなるのでしょうか。
周囲の無理解による「可哀想」という同情
まず自分は深い哀しみ=悲嘆に暮れるようになります。そこから長い長いグリーフプロセスがスタートするわけです。
しかし、周囲はどうでしょうか。彼らには特に変化はありません(もちろん故人との関係性が濃い、近い人にとっては当てはまらない)。
そして影響を受けていないからこそ、「お気の毒に」「可哀想に」という同情の言葉が自然と湧いてくるのです。(実際なんと声をかけていいか分からないという心境もあります)
これは、自分たちが周囲の立場に立った時、同じような反応を示す可能性があるので想像しやすいのではないかと思います。
翻って立ち止まって考えてみましょう。
そもそも周囲の人たちの言う「可哀想」の基準はどこにあるのでしょうか?
「何が ある/ない」と可哀想なのでしょうか?
可哀想なのは、私たち遺族なのでしょうか、それとも亡くなった方なのでしょうか?
この問いに自分自身で回答できるのか、もしくは声をかけた方が回答できるでしょうか?おそらくほとんどの方は答えられないでしょう。つまり、可哀想かどうかはその時の感覚で話しているということです。
もちろん「可哀想」というのは感情ですから、感覚で構わないのですが、それ自体を私たちは素直に受け止める必要性はどこにもありません。
何故ならこれらは周囲の持つ感情の中の、同情だからです。
本当に「可哀想」なのか考えたほうがいい
つまり、感情を選択する主導権は自分たちにあるということです。私たちの感情は、自分で決めていいのです。
可哀想かどうかは、私たちが決めるのです。気の毒かどうかは私たちが決めることなのです。
例えば、こんな風に思える日が来たらどうでしょう。
確かに、あの人が亡くなってしまったのは残念でならない。もっと一緒にしたいこともあったし、夢もあったし、目標もあった。一緒に頑張ってきたことも続けられなくなってしまった。
けれど、あの後から自分なりに泣きながら、それでもあの人を想い、愛しながら行動してきた。その結果、新しい仲間に恵まれ、新しい生きがいを見つけることもできた。あの人が空から笑顔で見てくれていることも感じている。今はそれなりに充実しているし、自分の新しい目標もできた。そしてこれはあの人のためにもなる。だから、今を生きようと思っている。
これは可哀想なのでしょうか?
仮面夫婦や家族が崩壊しているような状態に比べたらはるかに充実しているのではないでしょうか。一抹の寂しさは消えません。しかしそれでもなお、それすら抱えて生きていけることに価値があるのではないでしょうか。
そんな人生は、果たして可哀想なのでしょうか。
相手を変えるのではなく、自分自身の意味づけをアップデートする
このように、「可哀想」かどうかは、自分が決めるべき事項です。
自分自身のことが可哀想なのか、亡くなった方が可哀想なのか、そのあたりも曖昧な情報に耳を貸す必要はありません。もちろん、反論する必要もありません。立場が変われば私たちも同じことを言うかもしれないからです。
大切なのは、自分の外側からやってくるこれらの事象に対して、意味づけを変えてしまうことです。
自分自身の意味づけをアップデートしてしまえば、いちいち反論することもなく、穏やかにやり過ごすこともできます。
今日はそんなことを思いながら過ごしています。