愛する人と離れ離れになると必ず感じる悲しいという感情。哀しいという気持ちを理解することが、自分自身のグリーフワークにどうつながるのでしょうか。死別体験をしてからというもの、私たちは毎日哀しみに包まれて生活せざるを得ません。
大切な人の代わりにやってきた「哀しみ」とどう付き合っていけばいいのでしょうか。
哀しみとは
哀しいという漢字の「哀」は、喜怒哀楽の「哀」に含まれており、人間の持つ感情のうち大きな部分を占めています。その意味は文字通り、大切な人を失い、打ちひしがれ、心に大きな負荷がかかり大変辛い状態のことです。
哀しみは誰しもが持つ感情ですが、死別を体験することによって「哀」の部分がほかの感情を凌駕し、駆逐してしまいます。それによってあたかも「哀」だけしかないような感覚に襲われるようになります。
大切な人と過ごした大切であたたかな時間やくだらない話をしながら笑いあった時間、サプライズでプレゼントをもらった喜び、一緒に計画した旅行前のワクワク感、旅行中の楽しみ、旅先で喧嘩したときの怒り・・・それらの感情はすべて哀しみによって覆い隠されてしまうのです。
「哀しみ」と「悲しみ」の区別について本サイトでは「哀」という漢字を使用していますが意図した大きな意味の違いはありません。
悲しむ営みは能動的(トーマス・アティッグ)
「死別の悲しみに向き合う」という書籍があります。(「悲」は日本語版著書のママ)
大変有名な本ですが、この中で、特筆すべきは「悲しむ営みは能動的である」という一文です。この一文は、私たちに大変重要なヒントを与えてくれています。
死別体験は誰もが望むことではありません。愛する人が死んでしまうなどということは、想像もしたくないことであり、忌避すべきことのはずです。
しかしながらそれが現実に起こってしまった私たちには、アティグの言葉を借りれば「選択の余地のない」出来事であり、状態なのです。
それでも、アティグは悲しむ営み、つまり悲しむ行為は選択することができると述べています。
確かに、死別には選択の余地がなく、自分にはどうしようもない出来事のなすがままになっていると感じるとき、私たちは無力になりがちだ。悲嘆の感情に浸りつづければ、あるいは、極端な悲嘆の誘惑に屈すれば、深い無力状態、さらには麻痺状態に落ち込む危険がある。しかし、私たちは、悲嘆の感情に浸りつづけたり、屈したりしないことを選ぶことができるし、また、そうしなければならない。人生に統御の余地があると信じるとき、また、私たちがやるべき、また言うべき建設的で意味のあることがあるとき、無力だとは感じない。受け身の状態を抜け出し、能動的に人生に取り組むことに意味を見いだせるとい、無力だとは感じない。悲しむとき、喪失に対する自分の反応を制御し、自分の対処を方向づけることができる。
私たちが押し付けられた死別という事実は私たちにとってあまりにも重く、これからの人生の方向性や価値観をすべてひっくり返してしまうだけの力を持っていますが、アティグはだからこそ、「悲しむという行為」を正しく捉えなければならないと訴えています。
これは何も、心に無理をして負担をかけてまで前向きに、積極的になるということではありません。何も行動しなくても、感情の選択をすることはできますし、そこから徐々に行動を変えることもできます。
「能動的に悲しむ」ことによってこれまでの「二人の世界」とは違った、「自分の世界」を再構築することができます。
哀しみは誰のため
愛する人を想い、涙するとき、私たちの気持ちは愛する人にまっすぐ向かっています。「愛している」という言葉を、言葉にせずに涙に変えているともいえるでしょう。
その涙の種類が「どうして私を置いて逝ってしまったの」という涙なのか、「ひとりぼっちは寂しすぎる」といった涙なのか、それとも「離れてしまってすごく苦しいし、毎日が辛い。だけれど、あなたと過ごした時間はかけがえのないものだった。ありがとう」という涙なのか、実はその涙の裏にある感情によっても悲しみの感じ方は異なります。
もちろん最初は感謝の気持ちは湧きにくいのが普通でしょう。私たち人間はエゴの塊ですので怒りや恨み、つらみがあって当然です。しかしそれらが少しずつ融解し、変容していく中で流す涙の意味は恐らくゆったりと変わっていくのでしょう。
そのとき、私たちは「いったい誰のために涙を流すのか」「いったい誰のために哀しんでいるのか」という問いを立てることになります。
能動的に悲しむ
愛する人の喪失から、私たちは大きな哀しみを抱え、身動きが取れなくなってしまいます。大きな哀しみはとても重くのしかかってくるものであり、誰に助けを求めればいいのか、そもそも誰かが助けられるものなのかすら分かりません。
しばらくはそんな状態や期間が続いてしまうこともあるでしょう。無気力な毎日の連続は、私たちから社会性や経済性なども奪っていきます。
しかし、アティグも言うように、実は私たちが選べるものは意外と多いのだということにも気づく時があります。それは、一歩引いて物事を見ることができたときです。いわゆる俯瞰できるようになってくると、見えなかったものが見えるようになります。
「認知の歪み」が矯正されるのです。
そのとき、哀しむ行為を自らの意思と選択で行うことができます。極端な言い方をすれば「哀しみをコントロールできる」ようになってきます。
それは、自分の世界を再構築し、残念ながら亡くなってしまった愛する人との関係性や絆を改めて結び直したときにやってくるのでしょう。
アティグはこのように言っています。
能動的に悲しむことを選ぶとき、私たちは人生を選ぶ。
そうなのです。一見、愛する人を失う体験をするとすべての選択肢を取り上げられ、周囲との断絶など二次的喪失を含め、すべてが終わってしまったかのような感覚に陥ります。
しかし、実はこれまで述べてきたような見方をすれば、喪失を異なる角度から捉えられるようになり、喪失から湧き上がる悲しみに対しても少し冷静になることができるのです。