先日このようなアンケートを実施しました。
「あなたの大切な人が生きているとします。しかし1年後に死別することが分かっていた場合、それでも出会いたいと思いますか?」
この投票結果が以下になります。
あなたの大切な人が生きているとします。しかし1年後に死別することが分かっていた場合、それでも出会たいと思いますか?
— dan325@若年死別者のためのグリーフ情報 griefportal.net (@dan3256) December 8, 2022
結果として205票のうち、86.3%の方が「出会いたい」を選択しています。まさに圧倒的だったわけですが実はある程度予測はできました。しかしなぜこれほど「出会いたい」と思うのでしょうか。今回はその点を分析します。
アンケートの意図
目次
そもそもアンケートの意図としては「もしやり直しができるなら、人間はどのような選択をするだろうか」ということでした。これは例えば死別にかかわらず、人生の岐路(受験や結婚、転職など)をどのように選択してきたかと同じことです。
後悔の念が大きければ大きいほど、仮定の話であってもその人の本音が強く出るのだと言えます。「もっとこうしておけばよかった」という気持ちは誰しも持っていますが、その質や量が多いということは、恐らくこれまでは何らかの理由で本音とは異なる選択をしてきたと言えます。
知りたかったのは、それぞれの決定要因がどこにあるのかということです。
アンケートの回答は2つだけ
回答はシンプルに 2つだけにしました。
「出会いたい」と「出会いたくない」です。ここで大きな差がついているのですが、勘違いされそうなので先に説明すると「逢いたくない」を選択した人は薄情な方でも何でもなく、むしろ情が深すぎて逢いたくないと思っている可能性があります。
順に説明します。
「同じ哀しみを味わいたくないから出会いたくない」
愛する人を失う哀しみ、痛み、苦しみを長期間経験している場合、「逢いたいけれど、死別後のあの経験をもう一度するのは心身ともに本当に耐えられない」と考えている可能性があります。また愛する人の「死の瞬間」に何度も遭遇したくない(ショックが大きすぎる)というケースもあるでしょう。
これらは決して非難されるべきではないし、(どちらかというと)むしろ当たり前の感情でしょう。
個人的にはこの気持ちは非常によくわかりますし、とても共感します。経験者ならわかりますが 5年、10年とずっと続くのは本当に想像以上にしんどいわけです。
「それでもいいからもう一度出会いたい」
「それでも逢えるほうが重要だ」という意見もあるでしょう。今回も「どんなに苦しくても辛くても哀しくても、出会えるならそれでいい」というのが大多数ですが、それは何故なのでしょうか?
理由としては「やり残したことがある」「今度はうまくやれる」といったものや「ただただ逢いたい」という理由まで様々です。「とにかく逢って抱きしめたい」、「故人の気持ちを知りたい」というご意見もありました。これらの気持ちも本当によくわかります。
自分自身も死別後からずっとそう思っていました。今回のアンケートに自分が回答するとしたらやはり「それでもいいから出会いたい」を選択していたと思います。
愛する気持ちは哀しみを凌駕する
つまりこの選択をするということは「愛してるから、1年後に別れが来ると分かっていてもそれは甘んじて受けよう」ということです。
1年間で後悔の無いように過ごす。そしてその後はどのくらいの期間になるか分からないけど、仮に死にたくなるほどの哀しみがやってきてもそれを甘んじて受け入れようと考えるということです。
愛があればきっと大丈夫、そう思うのです。
それは本当に愛なのか、それともエゴなのか
実はこのアンケートは自分自身のグリーフワークの中で何度も問いかけてきたテーマのうちのひとつです。
自分の答えとしては前述のように「もう一度出会いたい」なのですが、ある時ふと気づきました。
たしかに愛があればその後の苦しい期間を耐えられるかもしれないけれど、本当にそれって愛なのだろうか?「逢いたい」とか「後悔の無いようにしたい」というのは、あくまで自分の意見や考えであって、それって見方によってはただのエゴではないのか?
ぶっちゃけ、相手がどう思ってるかなんてわからないわけです。
エゴなのかそれとも愛なのか、分からなくなってしまいました。
そう考えると、後悔や罪悪感を減らすための「自分のエゴ」を通しているだけになります。
愛とは何か
このようにそれがエゴなのか、それとも愛なのかを考えなくてはならなくなってしまったのです。
※現在では「愛とは赦すこと」という結論を得ていますのでその説明は以下のページをご覧ください。
そこから、愛が赦すことだとしたら、この問題提起自体も、自分の回答も、どちらの意見を選んでもエゴなのかもしれない、と愕然としました。
エゴをエゴのまま認める
そうです。もしどちらの答えを選んでもそれが愛ではなくエゴだとしたら、「自分が出会いたい」「自分が出会いたくない」ということなので、相手の意見や考えは無視されている状態です。(万が一、「いや~、私は逢いたくないわ」と相手に言われないとも限らないわけです)
ただ一方で、愛する人を失い、心身ともに疲弊しきった私たちにとって、それは生きる力になります。「ああしたい」「こうしたい」という願望(欲望)が私たちを行動させるからです。(例えばアンケートが「もし5年後に亡き人に再会できるとしたら、この5年間の苦しみは耐えられますか?」とあれば、多くの人は耐えようと思うはずです)
人間はエゴイスティックな生き物であり、それによって生存本能が機能しているのであれば、エゴはエゴのまま認めることも必要なのでしょう。
どこにフォーカスするのかが重要
エゴはエゴのまま認めた上で、もう一度アンケートの回答を考えてみます。
「この哀しみを経験したくないから出会いたくない」というのは、出会っている時間よりもその後の悲嘆感情や悲嘆のプロセスにフォーカスが当たっています。また「それでもいいから出会いたい」というのは、その後に確実にやってくる悲嘆のプロセスよりも、出会いそのものにフォーカスが当たっています。以下の図のようなイメージです。
結局「どこを見て判断するのか」ということが大切です。
ここには個々人の価値観や、亡き人との生前の関係性などが密接に関連しますのでどれが正解というのはなく、それぞれが正解だと言えるでしょう。
グリーフワークではフォーカスポイントが重要になる
どこにフォーカスすればいいのかと書きましたが、実はこれはグリーフワークすべてに当てはまる事です。
例えば、
- 亡き人を神格化せずに全人的に捉える
- ショッキングな言葉を言う他人のことより常に寄り添ってくれる人への感謝
- 自分のできないところを見るのではなく、できている部分を伸ばす
といったことです。
自分が何を見るか、見たいかによって感情は変わります(認知)。
そうであるならば、「自分が普段何を考えているか」というのが重要になります。哀しみの中にいる私たちは、ポジティブな気持ちは多く持っていません。ただそれでも日常生活の中や、自身の心の中、周囲の方々との関係性などからほんの些細なことであっても心が安らいだり、温かくなったりするポイントが隠れているのかもしれないのです。
何にフォーカスするのか、そのピントは自分で合わせることができるのではないでしょうか。
「出会いたい」という答えが多かったのには「それがもう二度と叶わない」と思い込んでいるからであって、今からでもできることはあるのではないでしょうか。
自分が死んだときにはどうやって声をかけてどんな話をしたいのか。
今回のアンケート結果から(仮にエゴだったとしても)実はそこにグリーフワークのポイントがあるのではないかと思うのです。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。