グリーフプロセスの最終段階は「受容」と言われていますが、簡単に言えば「大切な人が亡くなった」という事実を、フラットな状態で受け入れているということになります。
つまり、「大切な人の死」を認めて生活しているということです。
さらっと書いていますが、これは体験者にとっては実はとてもハードルが高いものであり、簡単に実現することではありません。遺族なら言わずともわかるでしょう。
今回はこの「大切な人がいない」ということを改めて考えてみたいと思います。
あらゆる場所に大切な人がいない理由
そもそも、どうしてあの人は今自分のそばにいないのでしょうか。
もちろん、それは「死」というものが彼/彼女の肉体を奪ってしまったから。違う言い方をすれば、彼/彼女は次の世界に行くために(帰るために)、肉体を脱ぎ捨てたからです。
当たり前ですね。今、居ないのは「死んでしまったから」です。言葉では誰もが理解できるのですが、これを本当の意味で感覚的に捉えられているでしょうか。
この部分がまさにグリーフワークに通ずる部分です。
これを上手に受け入れることができないから、私たちはグリーフプロセスの拒否からスタートするわけです。最初から死を受け入れることができるなら、哀しみも少なく、また涙を流すのも最初だけということでしょう。
しかし残念ながらそうではない。多くの人がずっと哀しんでいるのはなぜかと言えば、「愛する人の死をそのまま受け入れることが難しい」からです。「どうして死んでしまったの」「自分にはもっと何かできたのではないだろうか」といった後悔や罪悪感を持ち続け悩むのは、「大切な人の死」を受け入れてないからでしょう。
死別体験をすると様々な余裕がなくなりますが、一番苦しいのは心の余裕がないこと。「いるべき人がいない」という事実は残酷で、不在感とでもいうべき感覚(言葉ではうまく言えないけど経験者は分かる)が、すごく辛い。「居ない」っていう事実は言葉だけでなく気配とか心でも感じることだから辛い。
— dan325@若年死別者のためのグリーフ情報 griefportal.net (@dan3256) December 20, 2021
不在感
このように、大切な人が自分のそばにいないのはまごうことなく死が原因です。そしてそこから派生する「不在感」とでもいうべき感覚が私たちをより一層哀しませるのです。
経験者の方で「大切な人が死ぬ」というのは、「ただいま」が無くなることとおっしゃっている方がいましたが、言い得て妙で、とても納得感が高かった。そう、誰もこの家に帰ってこないんです。最初から独り暮らしなら納得ですが、そうではない。共に暮らす相手がいたという記憶は消えないからです。
— dan325@若年死別者のためのグリーフ情報 griefportal.net (@dan3256) December 20, 2021
長期出張中や単身赴任、留学中などといった理由なら「必ず帰ってくる」のでそれまでの辛抱は仕方ありませんが、死別は残念ながらそうではありません。二度と帰ってくることはありません。
いわばそこには、空白ができてしまっているのです。
「空白」を埋めるべきもの
世の中には空白を空白のままにしておくことはできず、「空白の法則」や「真空の法則」と呼ばれるものがあります。これは空白地帯は必ず何かで埋まるということです。つまりそこには必ず何かが入ってくることです。
であれば、私たちはその「空白」を意識的/無意識的のどちらにせよ、埋めなければならないのです。そして今そこには「大きな深い哀しみ」というものが代わりにあふれるくらいに入っています。
絶望、悲嘆、無気力、喪失といった言葉で言い換えてもいいかもしれません。
そしてここで考えなくてはならないことがあります。その空白地帯に、いったい何を入れるのかを決めるという事です。例えば、
- すでに入り込んでいる哀しみで満たし続ける
- 他の誰かとの関係構築をする(例:再婚等)
- 何らかの楽しみも入れる
- 大切な人との関係性を見直し全人的な感覚に戻す
- 空白を空白のまま維持できるように努力する
といった感覚です。このうち、どれを選ぶのかは完全に自由ですし、ひとつだけ選ぶもよし、複数選ぶも自由です。他の人が、自分と違うからと言って批判する必要もありません。この選択は自分でできるからです。
放っておけば哀しみで満たされるこの空白を、どんなもので埋めるのかは自分で選択することができます。そしてそれによってとるべき具体的な行動も変わるでしょう。
じっくり時間をかけて考えてみるのが良いかもしれません。
「いない」というのは、もう二度と触れることができないということ
私たちは残念ながら、「いない」という事象自体を拒否することはできません。そのため次の手である、「空白」をどう取り扱うかということを真剣に考えなくてはならないのです。
生前、あの人を抱きしめた感覚を忘れることはないでしょう。それはふとしたことで思い出せるし、これからも消えることはないでしょう。私たちは私たちが想う以上に、「大切な人に触れる」ことで愛を確認しているのです。触れる事で愛が強くなるのです。
触れることができない恐怖は誰しもが持つ根源的な、本能的な欲求に起因するのかもしれませんが、二度と触れることができないなら、私たちはその空白をどうすべきなのでしょうか。
不在感を嘆き哀しみながら、自分には何ができるのでしょうか。その答えを探す行為こそグリーフワークではないでしょうか。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。