「彼女が助かるなら僕は何でもします!どうか神様、助けてください!」
映画でよく見かけるこんなセリフ、まさか自分が言うとは思いませんでした。そんな安っぽいセリフが口をついて出てしまうほど、追い詰められていました。
これはいわゆるグリーフプロセス(エイザベス・キューブラー・ロス「死の受容のプロセス」)でいうところの「取引」になります。
この受容のプロセス自体には賛否ありますが、確かにこういう気持ちを持ったのは確かで、自分のことよりも相手のことを想う瞬間がありました。
しかし今になって、それは果たして愛からくるもなのか、それともエゴなのかと考えることが増えました。
取引状態を望む心理
「取引」という言葉が示す通り、「自分のことは脇に置いておく」わけで、そこには無償の愛があるように見えます。
実際、自分もそういう気持ちでいました。「自分はどうなってもいいから妻を助けたい」- その一心でした。
でも、本当にそれでいいのだろうか?
もし妻を生かす代わりに自分が死ぬことになってもそれでいいのか?
本当は自分も一緒に生きていきたいと思うのが普通ではないか?
だからこそ妻に生きていてほしいと願うのでは?
自分も妻も共に生きることが目的だとしたら、そもそも取引状態を望むことがおかしいのでは?
この着想に至った時、もしかしたら愛よりもエゴが強いのかもしれないと感じました。
そもそも絶対に取引はできない
この取引が、愛に基づく願いや祈りなのか、それともエゴからくるものなのかは自分自身でも分からないし、後者であった場合には自分が怖くなるので深く考えたくないという点もあります。
しかしどちらの理由にしても、ハッキリ言える事実として「そもそも絶対に取引はできない」ということです。これは厳然たる事実であるので、奇跡でも起きない限り取引は成功しません。
これを認めることはものすごく大変で、だからこそ「死の受容のプロセス」と呼ばれるわけです。
何度も取引を持ちかけ、何度も拒絶され、徐々に諦めの境地に入っていきます。
「ああ、もう二度と治ることも、蘇ることも、戻ってくることも、助かることも無いのだ」
という事実を何度も何度も目の前に突き付けられるわけです。
もう、諦めるしかない。
この「諦める」が大切
とても辛い事実ですが、これを少しずつ受け入れ始めることによって(受容することによって)人生の再構築を行うことができます。
もちろん、それでも取引したいというエゴはゼロにはできません。ふとした時にそれは湧き上がるし、何の気無しに、求めていることもあるからです。
※自分自身もエゴの根深さは筋金入りだと思いますし、「それ、結局自分が苦しいからでしょう」と言われたら反論できない部分もあります。
感情が行ったり来たりする中で、愛なのか、エゴなのか葛藤しつつ、辿りつくのは「エゴを消そう」ではなく、この状態を客観視できるかどうかという点でしょう。
この状態を俯瞰できると、愛なのか、エゴなのかも判別しやすくなりますが「大切な人を失いたくない。この人のためなら何だってできる」という心理状態(つまり取引段階)では到底たどり着くことはできません。
「彼女が助かるなら僕は何でもします!どうか神様、助けてください!」
冒頭にあるこの取引では、グリーフプロセスを進んでいく事ができませんが、打ちのめされて、打ちひしがれて、もう二度と立ち上がることができないくらいになって、はじめて気づくことがあります。
「もう彼女は戻ってこないんだ」
「自分はなんて無力なんだろう。たった1人の人間を救うこともできないなんて」
「幸せになろうと言っていたのに、自分は何の価値もないじゃないか」
このように、自己否定や罪悪感に苛まれていきます。
※これは次のステップ「抑うつ」ですがまた別の機会に解説します。
諦めることで始まる
このような心理変化が内面で激しく起こりますが、周囲には分かりません。しかし、遺族の内面は、その時々でまったく異なる性質のものへ変化していきます。
濁流のような流れの中で抗うこともできず、ただただ流されてしまいます。
ただ、不本意ながらも流されてしまうことが諦めるという同義だとすれば、「私はこの世で最も愛する人を失ったのだ」と認めることこそが、実は、亡き人ともう一度新しい形で繋がるためのスタートになるのです。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。