喪失による影響は様々ですが、罪悪感に紐づく価値観の中に「愛する人が亡くなっているのに関わらず、自分の好きな時間を過ごす」「友達と会って楽しむ」といった行為に難色を示すケースがあります。
これはなかなか厄介な感情ではあるのですが、いわば「あなたは残りの人生を楽しんではいけない。哀しみで埋め尽くされていないと」というのと同じことです。
果たして本当にそうなのでしょうか。私たちは楽しんではいけないのでしょうか。
他者からの縛り
実は以前にも似たケースの記事を書いています。
これは、自分の状況をどう評価、判断するかという話です。
例えばこんなことを言われたらどうでしょうか。
「旦那さんを亡くしたって聞いてとても大変だと思うけど、でも保険金とかお金もいっぱいもらえて働かなくて済むんだからさ。もちろん今は辛いかもしれないけど、きっとそれなりに楽しく過ごせるよ。お子さんもいないなら自由な時間が沢山あっていいね、うらやましい」
これは極端な例です。これを発言しているのがまったく知らない人なら、心には響かないでしょうが、友人くらいになると傷つきますし、第三者からはそんな風に見えているのかと。怒りを通り越して哀しくなるかもしれません。
ただ基本的にこれらの他者からの発言は無視すればいいのです。実際に体験してなければ分かる訳がないし、分かってもらおうと期待すること自体が誤りだと言えるでしょう。グリーフは固有のものであることを理解しておかないと自分がとても辛い思いをするだけです。
問題は自分自身の縛り
第三者の他人からの「こうでなくてはならない」というある種の縛りは、完全無視で良いのですが、どちらかというと自分自身による縛りの方が影響は多くなるでしょう。
これがまさに「楽しんではいけない」「笑ってはいけない」という方向に進んでしまうことがあります。いわば罪悪感やサバイバーズギルトと呼ばれるような感情です。
実際、「自分だけのうのうと生きている」という感覚を消し去ることは難しいでしょう。自分自身をどう赦すかということが本当のテーマであることが分かります。
赦す事ができると心が軽くなりますし、楽しんでもいいんだ、笑顔になってもいいんだと気づくことができます。これは何も薄情になったわけではないのです。
楽しむために必要なグリーフワーク
なぜならこの「赦す」という行為は簡単ではないからです。悲嘆の中から徐々に理解を深め自分自身の再構築をする必要があります。つまり、楽しむためにはその前提として自らの感情や価値観が整理されていなければなりません。
例えば、それをせずに、内面が混乱している状態で遊びに行こうとしてもムリでしょう。心が悲鳴を上げることになります。
そうではなく、自然と「今日は友達と逢おうかな」とか「今日はひとりであそこに行ってみようかな」と思えるようになってくると、心の底から笑えるし、心の底から楽しめるのです。それは自らのグリーフワークが進んでいるということです。
そのためには、今辛い時期であってもグリーフを理解するための時間として、無理をせずマイペースで進めていくしかありません。
また、そうやって少しずつ努力しているのを見ているであろう愛する人は、自分のことをないがしろにして、と怒ったりするでしょうか?むしろ、笑顔で見守ってくれているのではないでしょうか。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。