一周忌や三回忌など、死別してからも亡くなった人のための法事は続きます。
また、四十九日、百箇日などもありますし、月命日、命日などもずっと続いていきます。これだけ考えると、大切な人を忘れることなど絶対にあり得なさそうです。皆の心にもずっと残っていけるだろうとさえ思います。
しかし、経年によって様々な変化、予想だにしない変化が起きるものです。それは、「愛する人が亡くなってしまう」なんて誰も想像していなかったのに、それが起きてしまった現実が証明しています。
そう考えた時、やはり様々なイベントはできる範囲でしっかり行った方がいいと言えます。
※「イベント」は法事的な意味で使用していますが、様々な宗教があり必ずしも法事だけでないので、広く包括的な意味で使用しています。儀式や行事でも構いません。
「心の記憶にあればそれでいい」という意見
そうは言っても諸事情でなかなか開催できないということもあるでしょう。また、心の中に、想い出の中にずっと生きていてほしいという意見も非常に共感できます。
私自身もそれでいいじゃないかと思う時期もありました。しかし、実際に節目節目のイベントを執り行うことによって、色々なことに気づかされましたのもまた事実であり、それによって救われた部分もありました。
節目を作ることで自分自身の進捗度合いを知る
一周忌でも何でもいいのですが(宗教的な側面に関わらず)、「あの人のために何かをする」という点において、イベントは大変重要です。
お経を唱えてもらったりすることで、あちらの世界で安らかに過ごしてもらうことができれば、これも私たちの心を安堵させてくれる要因だと言えます。
一方、私たちはこういったイベントを時期によって繰り返していくことで「積み重ねる」ことができます。
完全に崩壊し、方向感覚を失ってしまった私たちの世界は、これらのイベントのおかげでかろうじて進捗度合いや小さな達成感を得ることができるのです。
また、「大切な人の死」を改めて見つめることにもなります。過酷な面もありますが、徐々に「死を受け入れる」準備を無意識に整えるようになります。
振り返ることができるので心境変化も測ることができる
さらにこの積み重ねによって、数年の後に過去を振り返ったとき、「ああ、大変だったけどそれでもやり切れたんだな」という気持ちを確認することができます(もちろんその当時はそんな余裕はなく、必死です)。
しかしそれでもベンチマークとしてイベントは機能しますので、あの人のためではなく自分にとっても有効です。
ちょっと長い視点を持つことができる(これは大きな救いです)ので、心境の変化に気づきやすいと言えます。普段の日常生活が埋没してしまっているので、余計に有り難いと感じます。
周囲への証明と亡き人への愛情表現
また、イベントはきちんと周囲へ認知してもらうためにも重要です。外部との接触が極端に少なくなる人も多いでしょう。社会的喪失という点も無視できません。
イベントは周囲への「喪の期間」なのだという証明にもなります。故人と親しかった人は一緒に哀しんでくれるでしょうし、想い出話にも花が咲きます。(故人の知らなかったエピソードなども聞けると嬉しくなります)
そういうささやかな、それでも私たちの心を温かく(そして寂しく)してくれるチャンスがあります。
決して強制ではありませんが、無理のない範囲で執り行うことは、あの人にとっても、そして私たちにとっても非常に重要なことだと言えます。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。