「どう伝えたらいいか分からない」-私自身が妻を失ってから悩んだ部分です。
哀しい、だけではうまく伝えきれていないという感覚もありつつ、でもそれ以上の言葉が見つからないという状態がずっと続きました。
言語化がいかに大切かということをグリーフプロセスにおいて実感していた私にとっては、この部分は非常に難儀なものでした。
すべての感情は言葉にできない
まず初めに、人間は感情の動物であり、喜怒哀楽だけでは到底納まりきらないくらいの様々な複雑な感情を持っています。それは常に目の前で起きる事象への認知によって引き起こされ、感情を意識的にせよ、無意識的にせよ、選択をしています。
この言語化は大変重要な作業ですが、とはいえ、人間のすべての感情を表現できるかといえばそんなことはありません。
どんなに素晴らしい比喩を使っても、美しい文章を書けたとしても、それは人間の感情のほんの一部にしか過ぎないのです。
それ以外の部分は、言葉にできない感情です。特に愛する人との死別の哀しみはそんなに簡単に表現することはできないでしょう。私自身もそれは実体験として痛感しています。
言葉できるものを増やす努力くらいしかできない
私たちは心の中にある感情に対して言葉を与えることで、自分が理解するというプロセスを踏んでいます。表現できない感情は、自分でも認識しにくいのです。せいぜい「モヤモヤする」といった程度でしか表現できません。
モヤモヤーこれ自体はその感情を表すものではありません。しかし言語化できない。
自分を正しく表現し、守るためにも自分の気持ちをきちんと伝えたいと思うなら、モヤモヤではなく異なる表現で伝える努力をしなければならないのだと、私自身が痛感した記憶があります。
「大切な人が亡くなるというのは一体どういうことなんだろう」という問いに対して「ただいま、が無くなった」といった表現をすることは可能ですが、「ではその時の気持ちは?」と聞けば答えは様々になるはずです。
哀しいというだけではなく、どう哀しいのか?をきちんと言葉にできるかどうかという部分がまさに重要です。
そうなると今まで自分の中になかった表現や言葉を探す旅に出ることになります。
言葉にならないものは、ずっと自分で抱えていく
その努力(グリーフワーク)を継続しつつ、しかしそれでもモヤモヤがゼロになることはありません。
どういう風に伝えても、全然しっくりこないという感覚はあるでしょう。それは普通のことですし、言語の限界だと言えます。冒頭のように人間の感情は、喜怒哀楽の4種類だけでなくその間に非常に多くのグラデーションを持っています。
それをすべて言語に当てはめるのは到底無理な話です。
死別直後は強い哀しみだったものが、グリーフへの理解と共に、弱くなるのかそれとも哀しさよりも寂しさが強くなるのか、もしくは切なさなのか。
そういう心の変化が必ずある中で、すべての感情を表現することはできません。あくまで感情のまま保持しなければならないのです。
それは苦しい時もあるかもしれませんが、しかしながら、「言葉にならないもの」こそ亡き人との絆だったり、その証明だったりするという要素もあるでしょう。
私自身、言葉にならないもののほうが今は多いかもしれません。切なさ、寂しさ、その中間、その混合なのか分かりませんが、鼻の奥がツンとなるような、何とも言い難い気持ちが沸き起こることがあります。
しかしそれはせいぜい上記のようにしか表現できないのです(実際に感じているのはもっと複雑な感情です)。
でも私はそれでよいと思っています。「私の感情は私だけのもの」だと思えるからです。他者に伝えなくてはならない部分はもちろん伝える努力はしますが、それは無理してすることでもありません。できないものはできないでいいのではないかと考えています。
悲嘆の感情は、それほど複雑ですし、何年もかかって自分が理解することもありますから、あまり慌てずにのんびりと言葉にできることとできないことを分けていけばいいと思います。
今日はそんなことを想いながら過ごしています。